昭和52年05月05日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよと言う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 受け物が悪ければおかげが漏ると、これはおかげの頂きやすい人、頂きにぬくいタイプと言うのがあるように思います。けれどもおかげは何処までもおかげですから、それはその実体があって映る影ですから、頂いてもすぐにおかげを落としてしまう。おかげの頂きにくい人、又はおかげの頂きやすい人、これも矢張りこの平等だという訳です。おかげの頂きにくい人は、それだけ信心が強うなります、おかげの頂きやすい人は簡単におかげを頂きますから、信心に熱を入れません。
 ですからそれを申しますと、やはり平等です頂きにくい人もある、頂きよいけれども、おかげをまた落とす、また頂くと言った様な事、すとおかげの頂きにくい人は矢張り人がとんお(とお、10の意)の信心をさせて貰って、とおのおかげを頂く、ところが頂きにくい人は二十の信心はでけても、とおのおかげも受けられない、と言う様な事になりますからね。神様は頂きやすいとか、頂きにくいとかと言うのも、そこにバランスを取っておってくださる。
 そこで頂きよい人が一度、なら信心に打ち込んで参りますと今度はおかげを、頂いたおかげを漏らさんで済む様なおかげになり、おかげと頂きにくい人は、いくら信心をしても、まあおかげは受けられんけれども、それだけ熱心にならせて貰う、そこで熱心になって参りますと、信心が身に付いてきます。言うなら身に徳が受けられます。だからどちらでも受けやすい受けにくいと言うても、お徳を受けると言う事になると同じです。不思議に熱心に信心を頂きに来る人がしてますけれども、おかげが受けられない。
 そういう時に、信心をちょっと緩めると、サーッとおかげの受けられるような場合がありますね。けどもそこんところをやはり、受けられても受けても受けられなくても、熱心に信心を進めていくと、そこからおかげが受けられる。神の徳を十分に受けようと思えばままよと言う心を出さねばならん、そのままよと言う心がおかげの受け物。なかなか右になりますように、左になりますようにと言うて願うても、なかなか思う通りにはおかげが受けられない。
 昨日、教報が参りました。昨日、教報に教祖様の御理解が出ております、教典に載ってない御理解です。『楠は石になると言うがのう、余り固いばかりでは床の柱にもならん、人間も余り固いとくずな人じゃといおうがのう』と言う御教えがあります。固いだけではね、いうならば、まじめだけではおかげは受けられないと言うのですね、むしろ抜けたようなね、言うなら固う柔うと言うなら柔い人の方がおかげが頂きやすい。固い人はおかげが頂きにくい。けれどもどちらであってもです。
 一つの何かの願っても、願ってもおかげにならない、これは固い人の場合なんかはね、けれどもそれを段々信心を進めて、いわゆるままよと言うような心で信心をさせてもらうとお徳を受ける。柔らかい人がおかげは頂きやすい、けれども頂いてまたすぐ落とす、そして繰り返しさせて頂いとって、こんな事ではいけないと言うので、その柔らかい人がいわば固くなる、固くなるまでに力を受ける徳を受ける。だから結局は本当のおかげと言うものはお徳を受けなければ本当のおかげに留まらないと言う事になります。
 結局ままよという心が出るまでが信心辛抱だと。昨夜お夢とも御心眼ともつかずに頂いたのに、十五万円と書かなければならんのを一万五千円と数字で書いておる、いうなら十五万円のおかげが頂けれるはずなのに一万五千円しか頂けなかったと、それでそしたら、それに0をもう一つ付けたらよいじゃないかと頂いたんです。そこで私共が信心させてもろうて神様が本当にもうすでにおかげを下さるようにあっても、なかなかおかげが受けられない、いわゆる、受け物が出来ていない、受け物が悪い。
 その受け物が悪いと言う事を自分で悟らなきゃ、はぁ自分のごたるいうなら辛抱のでけん、自分のごたる汚い人間、自分のような者がおかげの頂けれるはずはないと言う自分が分かるところからですね、お詫びが出来る、そのお詫びと言うても、ただ相すみませんと言うだけのお詫びではいけない。どう言うお詫びかと言うと、ゼロになるお詫びをさせてもらわにゃならん、神様は十五万のおかげを下さろうとしておるのに、実際は一万五千円、十五万頂かにゃんはずなのに一万五千円しか。
 そしてそこで分からにゃいかん事は、なるほどおかげの頂けんはずだ、一万五千円でも勿体無い位だと、受けられない筈だというものを、自分の信心の内容に気付かせてもろうてね、そしてどこにおかげの受けられない元があったかが、追求され分かって来る。そして、そこが分かった時に初めてお詫びと言うことになる。ならどうもすみませんと言うお詫びだけではもういかん。どう言う言うならばお詫びをしなければならんかと言うと、死んでもままよと言う、お詫びでなからなければいけない。
 ゼロと言う事は無と言う事、無いと言う事ね、もう一つゼロ、もう一つこの丸をつけると一万五千円が十五万円になる、と言うふうに私は夕べ頂いたら今朝の御理解、もう神様が当の昔に、おかげの成就を願っておる事の成就をして下さる筈なのに、おかげが頂けてない、神様が嘘を仰るはずはないのだから、これは受け物が悪いのだ、自分が悪いのだどこが悪いか、こう言う心の状態、こう言う受けものではおかげにならんはずだと言う物が分かる。分かるからそこにはお詫びがなさらなければならない。
 ならそのお詫びと言うのはどう言う事かと言うと、ただどうも相すみませんだけではすまん。そこでならどう言うお詫びかと言うと、ままよと言うお詫びである、それは死んでもままよと言うお詫びである。こう言うと大変難しゅうなりますけれどもね、たとば昔戦時中に一日戦死と言った様な事を申しましたね、色んな御用奉仕に出らなければならん、だから今日一日もう戦死したごたるつもりで、その奉仕に出れとこういう訳なんです、ですから言うならば、一日戦死であります。
 又はねその事だけを言うならば、どうでも良いと言う気になる事なんです。これはもう自分の周辺に幾らも稽古のできれる事柄が転がっておると思うんです。一口上を言わなければならんと思う様な時にね、もうそれこそ死んだ気で言わんと言う事になるね、そんな問題なら沢山あるでしょうが。そして死んで気で言わんと言う、言うならば事が黙って治めると言う事に繋がるおかげになりますから。
 これはもう本当に言うちゃならんなと言う事が繰り返しておる内に分かってきて、言わんで済む黙って治めれる、お徳が受けられます。例えば腹の立つような問題でも、はぁここで腹をたてはならん、そこで死んだ気でならせてもろうたら腹もたたん。まぁ例えて言うならば、もう今日は一日死んだと思うて欲を放してね、教会の御用でもさせてもらおう。いや又は教会の御用がある時などはですね、例えば今日一日戦死のつもりで奉仕をさせてもらおうと言った様な稽古です。
 結局信心の稽古です、信心の稽古と言うのは拝むことだけじゃないね、いつの場合でも自分をゼロにしていけれる稽古を、そしてなら本気で一日中死んだ気でおれる様な心の状態になったらもっと素晴らしいおかげが受けられるだろうと言う事になるのです。それこそ死んだ気で、そして励まして頂くと言う事なって初めて人も助かるし、又はお徳も受けられると言うおかげが受けられる。
 どうしておかげが受けられんだろうかと、と言う前におかげの受けられんはずだと、受け物が悪ければおかげが漏ってしまいよるのだと、悟らせてもろうてね、その受け物がどこがどう悪いのかと言う事を悟らせてもろうて、そこを改まっていくと同時にね、お詫びをさせてもらわなきゃならん。そこでそのお詫びと言うのは、只済みませんと言うのではなくて、お詫びの印に神様に通う修行をさせてもらわなきゃいけんね。
 お詫びの印に水をかぶりますの、断食をするのと言った様な事も、昔は随分流行ったですはね、合楽もそうでした。ははぁあの人が断食を始めたがなんか悪い事したばいのうと気付くぐらいやったね。だからそのお詫びの印はやっぱ真剣です、けれどもそれは現在表行を廃止、全廃になっておる、合楽では本当の金光様のご信心はそうじゃない、もう心行一本でというのですからね、死んだ気になるという心行こそ素晴らしい事になるのです。だからおかげが受けられん、受けられぬ元はこちらにあるんだと。
 ならどこにおかげが受けられんのかと、例えば夫婦なら夫婦で、親子なら親子で話し合う時に俺達がおかげを受けられんはずじゃんねと、ここをいっちょ改まらにゃんね、神様は嘘を仰る筈はないこっちが嘘を言いよるね。これでは神様が知らん顔をしてござるはずだという、そこに気付かせて頂いてです、そこを改まっていくと言う事と同時にお詫びの印の信心がなさらなければならない。確かに十五万円と書いてあるから十五万円頂きならんなのに一万五千円しか頂けていない、これはおかしいと思うたらね。
 そこを分からせてもろうて、改まっていくと同時にお詫びの印の信心ができにゃならん。そのお詫びの印にする信心と言うのはもう、その一言一言でも良いから死んだ気で、いわば黙って治める、言いたい事は山々、けれどもここでは死んだ気でお詫びの印に黙って、いわゆるゼロになる。そこにゼロが一つ付く時にまた、なら一万五千円が十五万円になるようなもの。
 同時になるほど、自分が死んだ気になると言う事はこんなに素晴らしい事だと言う事が、その一言一こま、一こまに分からせてもろうたら、もういよいよ言わんで済む信心、そこにはどこまで深いか分からん、どこまで広いか分からんと言うようなおかげになって、限りないそうしたおかげに繋がって行くことにもなってくる。一言、一こまづつでも良いから、そう言う、私はそういう手があると、言う事を今日は感じさせて頂いておる。信心させて頂いてね。
 ただほんと自分ができんもんじゃから、本当お詫びばっかりしておるだけじゃつまらんちいう事、お詫びの印にもうこの事だけには死んだ気でもう言わんぞ、もうその事だけはせんぞと、死んだ気でお詫びの印に一言づつでもそれを行じてみる。そこに0が一つ増えるわけ、神様が下さろうとしておったおかげが受けられると言う事になるのです。信心と言うのは、私はそう言う風な一つの信心を進めていく手掛かり、おかげを受ける手掛かり、いやそれがお徳を受ける手掛かり。
 今日の御理解で言うとままよと言う心にならなければ十分の徳は受けられないと仰る。それをね、もう一年間死んだ気でと言った様なことではなくて、今日一日死んだ気で、いやそのことだけには死んだ気でと言う様に小刻みにです、それを行の上に現していく事によって生まれてくる体験。成程これはもう言うちゃならんなと、例えば言うとかするとかと言う事だけじゃないですね。いうなら一日千秋ね口上の一つも言いたい、今日の菜はかろうしてこたえんじゃないかと。
 今日のお汁は塩が足らんとか砂糖がたらんとか、と例えば言う様な事でもいいのですよね、今日はもう死んだ気ですから。昔そういう死んだ気での修行をさせて貰いよる時に、吉木の謝恩祭にやらせて貰って、私がうどんが好きだと言うのでうどんを作ってくれ、もう行ったらすぐうどんをどんぶりでついできた。はぁ上には具が一杯入ってて、ほんとにおいしそうである、と箸を取って食べようとした所がどっこい、すめが入ってない、これはあんたすめが入っとらんじゃんのうと、言おうかと思ったけれども。
 お位牌さんがものをいわっしゃるはずがないと思うてね、死んだ気でですから黙って、もう殆ど食べ終わっとる所へ、あれは食べにくいです、うどんのすめ入っとらんとは、で具が上に入っとったから、まあ具のせて頂いたけど、勝手の方であらぁちいうてからもういいよる。今んとにはあんたすめが入っとらんじゃったっち、勝手の方で御用を頂いておる人達が良いよる。先生今んとはすめが入っとりまっせんじゃった。
 入っとらんじゃったよ、けれども私はもう死んだ気でという今は、修行をしよるとだから、お位牌さんがものを言う筈がないから黙って頂いた。これは条件にゃ及ばんと言う様な事でしたけれども。今日の御理解がそうなんですね、甘いの辛いの口上ね、こまごとを言う。でも例えばそう言う事からでもなら文句の多い人がです、はぁもう自分は死んだ気で文句だけは言わんぞとなった時には、もう死んだ気ですから、ゼロになるから一万五千が十五万円に、すぐなる様なおかげにも繋がるわけです。
 そして信心の稽古とはね、そう言う風にもう絶対間違いのない修行に取り組む事だと思うんです。もうこの修行なら自分の身辺に、もうそれこそ一杯あるです。死んだ気ですから、あげな物を食べたい、こげな物を着たいと言う様な事もなくなってくるです。けれども食べさずにはおかん、けれども着せずにはおかんという働きを受けた時に初めてもったいないなぁ、有り難いなぁ私のような信心もできん者にこんな物を頂いてと言う事になってくるのです。
 今日は、私は素晴らしい、いわゆるお徳の受けられる、その手掛かりともなる信心を、まあ聞いて頂いたつもりでございます。おかげの受けにくい人、おかげの受けやすい人、いかにもここには不同なようですけれども、実を言うたら平等なんです。おかげの受けにくい人は一生懸命なりやすいと言うものがあります。おかげの受けやすい人は一生懸命になれない、おかげは頂きやすい、そこでバランスが取れてくる。
 だからどちらにしたところでです、やはり一度何かに直面した時に、これはこんな事じゃいかんと一心発起をした時にですね、緩い人が固うなり固い人が緩うる。いうならば丁度良い信心がでけてくる時に、いわゆる平等のおかげが受けられる。おかげも受けられりゃお徳も受けられていく信心に進めていく事が出来るのです。皆さん達の場合なんかは本当に、神様が十五万のおかげを下さろうとしておるのに、私はなぜ十五万というか、まだ良く分かりませんけれども、中途半端と言う感じですね。
 一五、一と五ですからね、そういう例えばならおかげでもです、本当に頂けれる筈のおかげを、頂けんで漏らしておる様な事が、どの位あるやら分かりません。本当に勿体無い話です。勿体無いと言うのは神様に対して勿体無いです。言うならばおかげを無駄にして折る様なもんですからね、十五万円を下さろうとするから、願うから十五万下さるんだけれども、それを一万五千円になるまでにもらしてしまうのですから。
 やっぱり勿体無いことでしょうが、神様に対して相済まん事になるのです。それでもやはり頂きたい、どこにおかげの、なら漏れる所があるかと言うと、有るは有るはここから漏れておった、ここが頂けない元があったと分かる。そこでお詫びの信心がなされる。それもただ相済みませんと言うて、いかにお詫びをしたところで仕方がないね、と言うてならお詫びの印にというて。
 まあいろいろ修行をしますけれども、言うならば、神様が受けてくださる修行もありゃ、受けて下さらん修行もある。そこでこれなら絶対と言う事は私共が空しゅうなってすがる、願うのです。自分というものをむなしゅうなる、それを今日の御理解で言うとどうでも良いと言うか、ままよと言う心なんです。そのままよと言う心は、ならどう言う心かと言うと死んでもままよと言う心なんです。
 だからもうすでに空しゅうなっておるのであり、死んでおるのと同じに神様が受けて下さって、0がもう一つ増えると言う事になる。そこに神様が下さろうとするおかげを十分に頂く、十分の徳を受けようと思えばままよと言う心にならなければおかげは受けられんと仰るのですから。どうぞ私共の場合には、もう本当に空しゅうならねばならん事がたくさんあろうと思うです、それを一つ一つ空しゅうなる、そこから本当のお徳が受けられるのですよね。
   どうぞ。